神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

霊的知識と霊的真理の違い

 この手のブログを書いてきて使い分けに迷う言葉の一つに霊的知識と霊的真理というものがあります。まあどっちでもいいしどちらかに統一してしまってもいいのですが、実際に霊界通信では使い分けられていますし、なんとかはっきりさせたいと長年個人的には思ってきました。とはいえ大方の人にとっては気にするまでもないことなのかもしれませんが。

 とにかくその答えがここにあるようです。

「知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を生み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則です。」

 教科書を読むように霊界通信を読んで、ふーんそういうことですか、と知識を得ることは出来ますが、それだけでは霊的知識とは呼べても、その人にはまだ霊的真理と表現する資格がない、ということではないでしょうか。霊的知識がその人の腑に落ち、腹に落ち、激しく内応する確信・信念が生じた時初めて真理と呼ぶことが出来るということです。

 その人の中で真理にまで昇華した知識を土台に、体験を通じさらに真理(への理解、体得)が深まり広がっていきます。これを成長と呼ぶのだと思います。

 蛇足ではありますが、私が今しがた真理と捉えることが出来た知識があります。それは苦楽は一体というものです。というよりむしろ苦も楽も実在しないのです。ただ体験というコインが在るだけだということです。

「霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。」

(「シルバー・バーチの霊訓1」3章)