神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

地上の時間と霊的時期

 セウォル号の事故が起こった時、なんとか子どもたちを助けられないかと願い、それが絶望的となってなによりも苦しさそして悲しさに打ちのめされるようでした。このような事故が不条理と呼ばれるものなのでしょうか。

 人の寿命について、各々が地上で果たすべき霊的目的に応じてだいたいは決まっているのですが、それなら事故や災害によって何百人、何千人と同時に亡くなることをどう捉えたら良いのでしょうか。

 おそらく例外的に事故に巻き込まれるケースもあると思いますがシルバーバーチはこう語っています。

「なぜあなたは死をそんなに禍いのようにお考えになるのでしょうか。(中略)死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。」

「あなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして100歳まで生きたとしても、無限の時の中での100年など一瞬の間にすぎません。

 大自然の摂理の働きに偶然の出来事というものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです。」

(「シルバー・バーチの霊訓8」3章)

 重要な点が2つあると思います。地上の物的な見方では事故で若い人たちが同時に亡くなるというのは不条理で残念至極に見えますが、永遠の霊にとってはさほど残念でも苦痛でもなく、むしろ喜ばしい解放なのです。

 もう一つは人生の様々なターニングポイントは霊的進化の観点から、つまり霊的時期に従ってやって来るのであって、それを地上時間で計ることは出来ないということです。地上時間で何年経とうが、一瞬のようなもの(永遠の現在)だということです。

叡智の導き

 物的なものは儚い、地上人生を終わればそれらは無に帰してしまう。とはいってもそのことばかり強調したくありません。もっと重要な点が忘れられてしまうかもしれないからです。

 私たちは霊である。そして霊として永遠に生きるということが重要なのです。

「あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば・・・もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば・・・もしもあなたがそうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。」(「シルバー・バーチの霊訓8」3章)

 死後私たちは霊として永遠の進化の旅を続けます。このことを悟れば、自然と霊を進化させることに心を注ぐようになるでしょう。そして叡智の導きを求めるようになるでしょう。

 この叡智の導きをどうやって得るのかというと、夢の中でお告げを受けるようなこともあるかもしれませんが滅多にないでしょう。導きはもっと自然に訪れると思います。霊の進化こそが永遠なのだという思いで生活すれば、日々の物的なかかわりに対し、どのように対処すれば良いのか、おのずとわかってくるのではないでしょうか。それが導きだと思うのです。

 物的なさまざまなモノやコトも、霊の進化になんらかの関わりを持つとしたら決して無意味ではありません。霊的視野で物事を見られれば、無意味なものは何一つありません。

自分ならではの仕事

 霊的知識について知っているか無知のままか、というのが結局のところ死を境にして人が経験する最大の変化です。そうじゃないだろう、体がなくなるのだからと思われるかも知れませんが、あちらは思念の世界なので、体がなくなって魂だけになるのだと知らなければもとの体のままなのです。

 ところが霊的知識の境界線は急速に広がっていきます。ガイド役の霊が教師になってくれるからです。

「私の世界へやってきた人は死が階段を一つ上ったことを意味すること、大きな解放を得たことを理解します。潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。」

 昔は世界全体が貧しく、ほとんどの人が生活のために仕事をしなくてはなりませんでした。そのこともあって、潜在的能力を活かしたその人ならではの仕事ができる人はごく少数だったと思われます。しかし今は時代が違います。

「知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。」

 今ではしっかり知識を手に入れれば、この地上生活を送りながら潜在的能力を発揮し自分ならではの仕事に少しずつでもたずさわるだけの余裕が生まれると思います。もちろんそれで生計を立てるようになるかどうかは完全に別の話ですが、その仕事で生気はつらつとした生活を送れるようにはなるのです。(「シルバー・バーチの霊訓8」3章)

「新しい自由」をお示しします

 人は死んでから四十九日立つと成仏できる、浮かばれるそうですが、なにもそこまで待たずとも人は浮かばれるのです。むしろそうならない人、しばらく浮かばれない人は少数派なのです。

「大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることができるようになるのです。」

 物的視野で地上生活を歩み続けるのはいわばアリの目線で物的因果関係の一本道しか認識できません。無知の暗闇とはそういうことを指していると思います。ところが死んで物質から解放されると霊的世界の知識が一気に入ってきて、なんだ自分はこれまでちっぽけな物的思考に縛られてきたが、こんなに広大な霊的世界が広がっているではないか、思いっきりそこで活動できるではないか、ということに気づきます。これが新しく発見した自由です。

 ということで誰もが皆、死ねば新しい自由を発見できるのですが、それまで待たなくてもいいのではないか、もしも可能ならば今地上にいる間にも、もっと言えば今すぐにでも自由になることはできないのだろうかという、ちょっとへそ曲がりかもしれないが囚われない心と本質を求める心を兼ね備えた魂に、霊的知識はいつでも開かれていて、それを獲得した人からどんどんと臆することなく真の自我を発揮し始めるのです。

「過ぎ去ったことをくどくど思い起こすのは良くありません。それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的成長する好機の到来を告げるものとして、希望に胸を膨らませて迎えることです。それが叡智の道です。」

(「シルバー・バーチの霊訓8」3章)

 

達観のすすめ

 毎日シルバーバーチから引用しているからといって、私はなにも専門家でも研究者でもありません。そうだったらカッコいいなと憧れはするのですが。そうなるためには、たぶんハードな訓練と研鑽が必要なのでしょう。到底、自分には向きません。

 私は霊的真理の一介のファンにすぎません。ここで書き続けていることも一種の推し活です。それが精神の安定と充実感をもたらしてくれるので、ここまで続けてこれています。

 霊的真理を信じる人はどのような生き方をしてもかまわないのです。それこそ自由です。専門家とか研究者とかカッコいい仕事をする人でもいいし、子供から老人まで、遊び人から勤め人まで、自然に親しむ人も、都会派の人も、旅行する人も、スポーツをする人も、部屋にこもる人も、昼でも夜でも、どんな生き方、アクティビティをしてもいいのです。霊的真理はそんなすべての人間活動の土台にかかわることだからです。

 だからみなさんがどんな人であっても、いつも心に霊的真理を置いておいてくださいと、そのことばかり言い続けたいと思います。どんなに同じことの繰り返しになろうとも。なんといっても霊的真理とはみなさんがひとり残らず霊であるということ、もっと言えば神なのだということを伝えているからです。これは一生涯、片時も忘れずにいるだけの価値のあることです。

「縁あってあなたのもとを訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い換えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。」

 自分は神なのだ(だから、いつもそれを発揮するようにするのだ)ということを忘れない。

「人生を達観することが大切です。」

(「シルバー・バーチの霊訓8」3章)

いちばん大切なルール

スピリチュアリズムには”7つの綱領”というのがあります。その一つに”各個の責任”というのがありますが、たぶんこれが7つの中で一番大切でしょう。異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則なのです。」

 来たるべき人類の未来は、すべての人がスピリチュアリストになるのですから、あえてそういう名称を使う必要はありません。すべての人が守るべきルールの中では何が一番大事なのか、という話です。”スピリチュアリズムの7つの綱領”は(興味がお有りの方は)ネットで調べてください。

「いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分が裁判官なのです。」

「あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭に置いてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心がけることです。」

 たえず良心に従うこと。可能な限り霊性を発揮すること。これってはっきり言って面倒くさいことかもしれません。しかし最初の引用で、”注意を怠ればそれだけの代償を払わねばなりません。”とあります。小さな面倒くささをそのまま放置するから、それが積み重なっていつか重大な代償を払うことにつながります。注意を怠らず小さなことからコツコツと守っていけば、結局はそれが一番うまく行くのだと思います。

 一言で言うなら誠実であれ、ということだと思います。(「シルバー・バーチの霊訓8」3章)

時間とは幅の広い糸巻のようなもの

 今日はいつにもまして一段と妄想の度合いが高いです。

 少し前に時間は存在しないという本が流行りましたが、もしそうならばとても大きな慰めになるのではないか。過去は二度と戻らないという、どうしようもない、ただ忘れることでしか克服できない悲しみを取り除いてくれる真理になるのではないかと思ったのです。

 霊訓では、時間は永遠の現在であるという言い方をします。時間は車輪のようにただ一所で回転し続けていて流れ去るものではありません。ただ私たちの時間に対する関係性が、私たちのその時々の自由意志の行使によって変化します。これは私の妄想では時間という幅の広い糸巻きに関係性という糸を様々な角度で巻きつけていると捉えられるのではないか。自分を今の自分にならしめているもの、時間に刻んだ関係性の軌跡は変えられませんが、それを上(?)から見直すこと(あるいは、ためつすがめつ違う角度から見直すこと)はできるのではないか。というのも時間の糸巻きを自分自身の視点を移動することによって見直すことは可能だと思うからです。

 桜は散り今年の美しさは二度と戻りませんが、季節は繰り返しまた来春には満開の花を堪能できると思うと悲しいとは思わなくなります。人生の過去の悲しみも、また将来への不安や重苦しさも、ただこの永遠の現在との関係性であり、それはいつでも捉え直すことができるのだと思えば、それは大きな慰めとなり気持ちを楽にしていられるのではないかと思ったのです。

 このテーマはまだ試行錯誤の段階で、まだ書くべきではないのかもしれませんが、記録として残しておこうと思います。

「時間は永遠の現在です。過去でも未来でもありません。それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。とても説明しにくいのですが、たとえば時間というものを回転し続ける一個の円だと思ってください。今その円の一点に触れればそこが現在となります。すでに触れたところをあなた方は過去と呼び、まだ触れていないところを未来と呼んでいるまでのことです。時間そのものには過去も未来も無いのです。(中略)つまりあなたの行為によって作動させた原因、言いかえれば自由意志が生み出した原因から生じる結果をごらんになるだけです。それは時間そのものには影響を及ぼしません。時間との関係が変わるだけです。」

(「シルバー・バーチの霊訓8」2章)