神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

神の義

”まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらの(必要な)ものは、すべて添えて与えられるであろう。”

神の国とは神の世界観が成就した世界であり神の義とは神から見て正しいこと、ということでしょうか。なによりもこのことを求めるならば生きていく上での必需品を手にすることができる、ということです。

しかし、いかにそれがイエスご自身の言葉だからとはいえ、またいかにそれが真理だからとはいえ、単に信仰でそのとおりにしていこうとするのは大変だし非常に意志の力を要します。

なぜ神第一でなければならないのか。万物の創造主であり支配者であらせられるからか。確かにそのとおりなのですが、もう少し詳しく理由を知っていると単なるお題目を超えて納得し実践しやすくなります。

そこには、どうして人間はナイナイ尽くしの中で苦労して働いて生きていかねばならないか、という問題も絡んできます。キリスト教では原罪というものを説きましたが、その苦労に目的がちゃんとあるのだということを正しく知る必要があります。 

その目的は、と書きたいところですが、その前に一番最初に来る大原則があります。そこから始めなければなりません。

「霊こそ実在であるという真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらしめるカギです。」

「地上の人間は”身体”を中心に物事を考えます。私たち霊界の者はその身体を通して自我を表現しなければならない”霊”のことを第一に考えます。」

私たちの本質であるところの霊、それが身体をまとって自我を表現するところに問題の種が潜んでいそうです。

「地上生活は内部の完全性が環境の中で表現を求めようとする一種の闘争の場です。金塊が不純物を払い落としていく試練の場です。霊的開発と成就への道においては困難と苦痛と障害とハンディが必須不可欠の要素です。」「あなた方の地上生活での体験もそれと同じことです。一つ一つが魂の陶冶のための一部、大切な一部を担っているのです。」

魂の陶冶。これが人生の意味であり神の義です。よりよい魂になっていくために苦労も困難も働くことも必要になってくるのです。それであれば必要十分以上に物質的に豊かかどうかは大事なことではありません。自分の置かれた環境の中でいかに神性、霊性を発揮して洗練された魂になっていくかが問われます。

その魂が回り道せずに目指す先ですから、なるほど神の国と神の義が第一なのです。

(「シルバー・バーチの霊訓1」10,11章)