神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

天の理法に罰は無し

 古いヒチコックの映画で「私は告白する」というのがあって、たしか殺人の告白を受けた牧師がそれを警察に知らせるわけにいかず窮地に立たされるというストーリーでした。告白というとキリスト教では、それをするだけで罪の幾ばくかは赦されるという考え方があるようです。

 日本人の私にはピンときませんが、理性的に考えてそんな都合の良い話はないでしょう。人間がそれを罪と認めるかどうかに関わり無く、天の摂理に背いたことをすれば(それが悪いことつまり罪であるということは本人も心の何処かで気づいています)、その本人自身がまたそれを正していかねばならないのです。ここに罪に対する罰という考えはありません。罰というのは人間の発明品なのです。天の理法に罰というものは存在せず、ただ理法に背けば責任を取らされるというだけのことなのです。しかも、その責任はしっかり本人が果たさないかぎり免除されたり恩赦されたりすることは絶対にありません。

 摂理に生き、間違えればそれを正していけばいいだけです。であれば正直に生きている人なら何も恐れることはないということになります。

 天罰を恐れるのは責任から逃れたい卑怯者だけです。

「それ(罪の告白)は正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。(中略)蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です。」

「もしもその(死を迎えた)人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない、ただの臆病者だと、そう伝えてください。」(「シルバー・バーチの霊訓5」11章)