神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

いつも真心を込める

 何でも衝動的に動くと事を仕損じロクなことになりません。ああされたらこうするで玉突きのように行動すると、後で自分はなんてバカなんだと悔やむことになりかねません。損得の計算上ですでにそうですが、正しいか正しくないかという点でも拙速な判断はリスクが高いです。ただしそれは単に考えが足りないからというわけではありません。緻密に計算していてもやはり正しくないということはあるのです。その場合何が誤りの元かというと、心がこもっていないことです。

 それが正しいか正しくないかの真の評価は、具体的な行為一つ一つをまるでテストの解答と照合するかのように行うのではありません。その時の魂がどういう動機でそのように振る舞うことになったのかで判断します。その判断は閻魔大王ではなく霊的自我が我が身を顧みて行います。

 障害や病気などで間違って判断したり行動してしまったりすることを若い人(そうでない人も)が恐れて、認知症になる前に死にたいとかそんな話を職場でしていたのですが、そのような場合でも魂の動機とは裏腹にやむを得ず自我を正常に表現できなかったのですから不正を犯したということにはなりません。

 むしろ正しくないというのはなんでも軽はずみでしてしまうことです。正しくあろうとすれば簡単なことでも真心で愛をもって行うようにすることです。

 人の行動を見る時もこの判断基準に従って、一つ一つの行為よりも、その人の魂の動機はどうであるのかを考えられれば間違いは少ないのですが、そうできる人は少ないし、奥が深すぎてきりがないので、むしろ人を裁くな、その人の責任はいずれ必ずその人自身が負うことになるのだからと昔から言われています。

「あなたは、物的なことと霊的なことを混同しています。地上では、脳に障害があると混乱が生じます。宿っている霊は脳に欠陥があることで自我を正常に表現できなくなりますが、自分自身の責任は自覚しています。

 大霊の摂理は、あくまでも魂の進化を大前提として機能します。魂は、地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として評価されます。したがって地上的な善悪の基準では”悪”とされる行為であっても、魂そのものに責任がなければ、霊的には”悪”とは見なされません。

 例えば、発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合などです。それは知的判断力をつかさどる器官が正常に機能しなかった結果ですから、その霊が責任を問われることはありません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断します。動機を基準とする限り、判断を誤ることはありません。」

(「シルバーバーチの教え」10章)