神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

外見は常にほんの一部

 人を裁いてはならないと言われますが、そもそも人を正しく裁くことなど絶対に無理なのです。その人の表に出ていない部分の方が、表れている部分よりもとてつもなく大きいからです。

 私事で恐縮ですが、夢の中でどうしてこうもいろんな人が入れ代わり立ち代わり現れるのか不思議に思っていました。見ず知らずの人はさておき、知ってはいても縁遠かったり苦手な人だったり特になんの親しみも感じない人が夢の中に出てくるのはなぜなのか。しかし夢に出てくるということはやはりつながりがあるからで、それは地上生活における関係以上の霊にかかわるつながりだろうと思います。

 人はみな自己表現する以上、霊そのものではいられず必ず身体を持つことになります。今の身体どうしでの関わりはそれほどではなくても、別の身体に宿っていた時は実は深いつながりがあったのかもしれません。

 そして大事なことは、人そのものの本体つまり霊は常に身体よりももっと大きいということで、それは決して他人には(自分自身にさえ)計り知れないということです。それをただ一度の人生のほんの一時期だけで評価することは出来ないのです。

「霊として人間は始めも終わりもなく存在しています。それが個体としての存在を得るのは、地上に限って言えば、母体に宿った時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発現させることにあります。

 霊の世界への誕生である死は、その個性を持つ霊が巡礼の旅の第二段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿る全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始原により一層近づくということです。人間は霊である以上、潜在的には神と同じく完全です。しかし私は人間は神の生命の中に吸収されてしまうという意味での再融合の時期が到来するとは考えません。神が無限であるごとく(生命の旅も)発達と完全へ向けての無限の過程であると主張する者です。」(「シルバー・バーチの霊訓6」5章)