神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

学び続けるのが人間

 神は人間を意図を持って創造されました。人間の身体の殆どの部分が一定の成長を終えて大人になるとあとは衰える一方なのに、脳はそうではありません。神経細胞の数が多少減っても、そのつながり方は無限にあってどこまでも新しいことを学び続けられます。脳のしくみがそうなっているということは、神は人間を学び続けるよう設計されたといえるのではないでしょうか。

「苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んではじめて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。」

 苦しいときも楽しいときも、暇なときも忙しい時も、すべての体験が学びの契機となります。これはAIで言えば常にディープラーニングしているようなものだと思います。脳はコンピューターに一面似ているところがありますが、コンピューターがディープラーニングするのであれば人間の脳もそうすることで、無数のトライアンドエラーを繰り返し最適解、つまり無限なる愛と摂理への完全なる信頼に達するのです。

「その心がけになりきれば、つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならばその信念が内部の霊力を湧き出させ、何事も成就させずにはおかないからです。

 その霊力を枯渇させ麻痺させる最たるものは”心配”の念です。全幅の信頼心ーーー盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れない限り、自分を焼き尽くす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです。」

 心配り、というのは必要ですが、心配は不要です。心配は情報を遮断し、自然な脳の活動を妨害し、学びを滞らせます。それどころか、その麻痺の時間が長引けば、その人自身を焼き尽くしてしまうことにもなりかねません。

 心配の炎が燃え上がりそうなときは、色々手を尽くそうとしてかえって心を乱すのではなく、魂の安息場所に一旦引きこもるのがよさそうです。魂の学びはやはり、平静さと自信と受容力が取り戻されたときにこそ進むからです。(「シルバー・バーチの霊訓6」11章)