神の愛を伝えたい・・・

シルバーバーチの霊訓より

霊的幸福論

 人は死なない。人生は永遠に続く。だからゆったりじっくり生きていけばいいのだ。そう言うとこんな反論がありそうです。一度しか無い限りある人生だからこそ、人はみな人生を高め幸福になろうと努力するのではないか。いつまでもゆったり生きよというのは、その努力に水を差し人生の勝負を避けようとさせる怠け者、負け犬の考えではないのか、と。

 私には永遠の人生の証拠をお見せすることはできません。ですので反論はしませんがここで考えてみましょう。

 もし死で人生は終わりあとは無があるのみとしたら、生前の努力なり幸福なりはその人にとってどんな意味があるでしょうか。死の直前にああ幸せな人生だったという満足。それだけでしょうか。いいえそうやって努力した生き方が(場合によっては)社会を向上させ人類の福祉に貢献したことになると思います。それで後世の人がそうなってくれるだけで十分。本当にそう思える人ならあえて霊的真理を信じなくてもいいのかもしれません。しかしその場合でも何を人生の幸福であると考えるのかという問題があります。

 幸福とはできる限りよい思い出を多く残すこと、そのためにお金は死ぬ時にちょうどゼロになるように使っていこうという本を読みました。健康と時間とお金を調節しながらできる限りよい思い出づくりを目指そうというわけです。しかしここでもよい思い出とはなんなのかという問題(それは自己満足だったり、利己主義だったり、単に豊かな経験ができたという満足だったり)が残ったままです。幸福が自己満足で終わってしまう可能性は常にあると思います。それだけでなく人生でできる限り幸福に、良い思い出づくりをしたいと思えば焦りや諦めも出てくるでしょう。

 永遠人生説は良い思い出をたくさん作りたいという意欲を否定したりはしません。人生が永遠に続くとしたら焦りも諦めも必要なくなりますから、むしろ思い出幸福論の人にぴったりなのではないでしょうか。もしやはり死で無に帰すのだとしても最後までストレスなく生きられるのですからこれを信じていて害はありません。

 それと永遠人生説つまり霊的真理は幸福とは何なのかちょっと違った定義をしています。良い思い出を残すだけでなくそれを通じて自身の霊を向上させることです。その定義に従えばなにも特別お金がなくても豪華な旅行やスリリングな体験や人と違ったなにかにこだわらなくても、地上人生の終わりまで目指すことができるのです。

 というわけで永遠人生説を信じてみるのも悪くないのではないでしょうか。

「神のために自分を役立てようとする人はみな神の霊媒です。いかにして霊を向上させるかーーーこれはもう改めて説く必要はないでしょう。これまで何回となく繰り返し説いてきたことだからです。自分を愛するがごとく隣人を愛することです。人のために役立つことをすることです。自分を高めることをすることです。何でもよろしい。内部に宿る神性を発揮させることをすることです。それが最高の霊媒現象なのです。霊視能力者になる方法よりは、神の光が見えるように魂の眼を開く方法をお教えしましょう。それも今のべたのと同じです。」(「シルバー・バーチの霊訓4」6章)